四ツ橋 

四ツ橋

今は無き大阪の堀の多くは現在の大阪の地名として 残っています。
大変珍しい場所に四ツ橋があり、この四ツ橋は東西に長堀と南北に西横堀が 交差していた場所でそれぞれの川を渡るためにロの形に橋が組まれていたそうです。











上繋橋、下繋橋、炭屋橋、吉野屋橋の4つの橋がかかっていました。

 四ツ橋を歌った句

・上島鬼貫(うえしまおにつら 万治4年(1661年) - 元文3年(1738年)の句

 「後の月 入て貌よし 星の空」

 ・小西来山(こにしらいざん 1654-享保10年(1716年)の句

 「涼しさに 四ツ橋を四ツ わたりけり」


※大坂三郷外の今宮に「十萬堂」という庵を建てて、 風月を友に酒を愛し、飄々とした人生を送りました。 「十萬堂」は昭和20年戦災により焼失し現在、現在は 石碑が建てられている。 また一心寺に供養墓と句碑が建立されており、今宮戎神社の隣の 海泉寺には来山夫婦の墓があるそうです。

百田宗治

 厚生年金開館の南隣に広がるやや大きめの公園 この公園の真ん中には百田宗治の文学碑「何もない庭」の碑がありました。

 ※明治26年(1893年)-昭和30年(1955年)西区新町生まれ。






新町廓





さて、新町廓は京都の島原・江戸の吉原とともに、近世三大遊里の一つ。 大坂の新町は、明暦年間(1655年頃)には成立していたといわれ、当時 大坂では唯一公認の遊郭。 東を西横堀川、北を立売堀川、南を長堀川に画された地域で、 新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町・九軒町・佐渡屋町が花街の中心でした。

左の地図は東を上にしています。
右下に赤い色で書かれているのが阿弥陀池。そして真ん中の空間が新町遊郭です。

城郭?土塀?のようなので囲まれていたのがわかります。

遊郭の右下に<スナハ>(砂場)と書かれています。

また北側は現在の地名は立売堀(イタチボリ)ですが地図では<立ウリホリ>と書かれています。

<四ツハシ>から西に<長ホリ><ウワシマハシ><トンダヤバシ>と書かれています。右下の和光寺は<ワコウジ>と書かずに<アミダイケ>だったのですね。



和光寺の「摂津名所図会」を参照ください。



 S18の同じ場所の地図です。


この遊廓は、周囲に溝渠をめぐらし他町と区別し、 出入り口は西の瓢箪町の大門だけでしたが後に東側に大門を設けて新町橋に通じました。 この橋は昭和46年の川の埋め立てのために取り壊され橋柱が高架道路下にのこっているそうです。 寛文六年(1666)年の出火後は五カ所の非常門が設けられたが、 普段は閉鎖され、非常時のみ開くことから蛤門と呼ばれた。(火で炙れば口を開けるという意味)





 明治5年(1872)年、遊女解放令布告によってこの新町界隈はなくなりました。 当時、この辺りは砂浜であったらしく、遊郭に出入りする人を相手に繁盛した蕎麦屋が、 今、全国的に有名な「砂場そば」の始まりと言われています。




井原西鶴(好色一代男)や近松門左衛門(女殺油地獄・夕霧阿波鳴渡)の作品にも取り上げられた場所で、 その新町の内、九軒町は夜桜が特に有名で、 これは文政9(1819)年3月新町振興策の一環として植えられらことに始まるそうです。



 現在新町北公園に桜並木が再現されており、西北角には当時からあった 加賀千代女の句碑 「だまされて 来て誠なり はつ桜」も残されています。
※加賀千代女1703年(元禄16年) - 1775年(安永4年) 「朝顔に、つるべとられて、もらい水」で有名です。



 江戸時代にはこの付近に煙管(きせる)を商う店があり、名産「四ツ橋煙管」として知られて いた。

『摂津名所図会大成』 には、「此地の名物として烟管店軒をならべ、種々様々の形せし品ありて、買手の望みに任す」とある。

 天保8年 (1837)幕吏に追われた大塩平八郎父子が、船で逃走中に四ツ橋の下で刀を河中に投げ棄てた話は有名。

 小西来山(こにしらいざん)の「すゞしさに四橋をよつわたりけり」の句碑は四ツ橋跡高速道路の下に建てられている。

 日本の三大郭は、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町を指しています。最高位の太夫職がいたのもこの新町だけでした。明治31年に編纂された〔大阪繁昌誌〕によると全盛期の新町通・新町南通・新町裏通・西側・新町通を含めて貸座敷246件、芸妓418人、娼妓211人が居たそうです。


上方落語の世界では「辻占茶屋」。 源やんと梅乃がそれぞれ向かい合う橋に立ち、大きな石を投げ込み川へ飛び込むふりをします。NHK朝ドラの「ちりとてちん」でも登場した下座さんとの掛け合いがある難しい落語です。